城端曳山祭からいろいろ考える
今日は前回の記事に書いた城端曳山祭について書いていこうと思います。
上の版画は祖父が作成した版画です。
曳山会館で販売しているそうです。
曳山祭は宵祭と本祭の2日にわたって行われます。
このような祭りの起源が疫病退散を目的としたものと伝えられているものも多いですが、この祭りでは疫病は直接関係ないようです。
前回の記事で城端はかつて絹織物で栄えた町だと書きました。
城端は1500年代から五箇山地域と蚕の取引をしており、その蚕を加工し絹織物としていました。(五箇山地域とは蚕と金を取引しており、取引の後に、その金を使って城端で生活用品を購入し五箇山に帰っていたそうです。)
江戸時代ではその絹織物は加賀絹と呼ばれ江戸や京都で取引されており、その取引の途中で江戸文化や京文化を手に入れて来たそうです。庵唄がその1つです(次回書こうと思います。)
しかし、享保の飢饉の影響で、江戸や京都との取引がなくなるこのによる不況や町に農民の割合が増えるなどにより、街が混乱してしまいます。
その不況によるパニックをどうにかしようとして始まったのが曳山だと言われています(諸説あります。)。
しかし、いまだに城端曳山祭りは疫病退散を目的としたものだと言い張る住民もおり、コロナを収束させるためにも行うべきだと言い張っていた人もいたそうです(祇園祭じゃないんだって…。)。本当に中止になってよかった。
しかし、城端曳山祭りの起源から今できることは考えられることはあると思います。
コロナによって外国人観光客からのインバウンドに頼りすぎると危ないということは東京だけではなく地域も感じていると思います。
観光のその先や、地域を活性化するための根本的な対策を取る必要がある。
ではどうすればいいのか。
コロナで動けないこの時期に次の一手を考えることが必要であると私は考えており、現在祖父と色々話している最中です。
みなさんもこの機会に自分の住んでいる地域のことやコロナが収束したらのことを考え、すぐに行動できる状態になっておくのもいいのかもしれません。
今日はここまで。
次回は庵唄について書いていこうと思います。
ありがとうございました。